閉ざされている。世界は、限りなく。
それは子供の頃から常に宏太につきまとう感覚だった。世界は閉ざされている。閉ざされた世界が何層にも折り重なって、この世界は築かれている。例えば教室。例えば家庭。例えば国家。例えば個人。そうした大小の世界が入れ子になってこの世界は存在している。まるであの、ロシアの人形。
(マトリョーシカ)
なんで急に世界なんて論じだしたのかと思った。自分の脳味噌は。ぼうっと向けただけの視線の先にその人形たちが並んでいた。いまは入れ子になっていない。しかも大きいほうから順にプーチン、エリツィン、ゴルバチョフ、スターリンとたぶんレーニン。五体の人形は教科書の写真によく似ている。そう言えば〈リェータ〉という店名はなんのことだかずっとわからなかったけれど、もしかしたらロシア語なのかも知れない。これまで何度かこの店のコーヒーを啜ってきたのにまるで気付かなかった。そうと思って見ればカウンタにあるのはサモワールで、今度きたら紅茶を頼んでみようと思った。
(紅茶を飲んでたな、あいつは)
二週間ほど前のことだ。西村理恵。ひとつ年上の幼なじみ。地元の公立高校を卒業して、いまは京都の大学に在籍している。在籍は、しているはずだ。まだ。
通ってはいないらしい。それを知ったのがあの日だった。駅前で理恵の姿を見つけて不思議に思った。長期休暇の時期ではない。浪人生でもそれくらいわかる。宏太が声をかけると理恵は、最初困ったような顔をした。だからやっぱり八色にいるのはイレギュラーなのだと思った。
「悪いね、遅れて」
その一言で回想は断ち切られた。古賀修一は宏太の反応も待たずに向かいの座席に腰を下ろし、提げていた鞄を床に置いた。やってきたウェイトレスにコーヒー、と言って宏太を見る。
「だいぶ待たせちゃったかな」
「いえ……それほどでも」
曖昧に言葉を濁した。五分の一ほど減ったコーヒーはまだ冷めていない。ならよかった、と安堵したように漏らす古賀の柔らかい笑顔を、宏太はあまり信用していない。
何歳くらいなのだろう。知り合ったのはほんの数カ月前だ。本来宏太のような浪人生が縁のある相手でもない。それでも、いま話す相手としては適任かも知れなかった。少なくともほかに思いつく人間よりは。
閉ざされているから。この町は、あまりにも。
宏太の知り合いはみんな理恵を知っている。
「さっそく本題に入るけど、電話で言ってたあれね、"みやすさま"」
「なにかわかりましたか」
内ポケットから取り出したバインダ式の手帖を開きながら古賀は言う。
「正式には安主教、通称御安様というのは、四、五年前から東京を中心に流行りだした新興宗教らしい。本部は品川にある。あまり知名度はないが組織的な布教体制を整えていて、静岡と名古屋、大阪に大きな支部をもってる。こう」
と、古賀はテーブルに一本横棒を引いた。
「西に向かって勢力拡大してるんだな。御安様、と言うのは教団を差しても使われるけど、教祖の呼び名が拡大したと考えられる。昔キリスト教を耶蘇と呼んだのと似てるかな」
ウェイトレスが古賀のコーヒーを運んでくる。遠ざかるのを待って宏太は訊いた。
「どんなことを教えてるんです。その、教義って言うんですか。それは」
「それもキリスト教に似てるみたいだよ。曰く、汝の敵を愛せよ。然らば心は安寧に満たされる、と」
「それ、ほんとですか」
「さあねえ。このパンフレットにはそう書いてある」
渋谷で配ってたんだ、と古賀はA4三つ折りの紙片を渡して寄越す。青空の写真をバックに「安主教」の白文字が躍っている。古賀の言ったのはずいぶんなデフォルメだった。「あなたの安らぎは他者とともにあります。互いを愛し理想の世界を作り上げなさい。安主様はその導きとなるでしょう」――ありがちな諭し文句だ。
「情報は提供したから、訊いても良いかな。どうしてこんなものを調べてるの」
一瞬言葉に詰まった。もちろん訊かれるだろうとは思っていたけれど。
「知り合いが、言ってたんです。御安様がどうとか。ちょっと様子が、変だったから」
「知り合いね」
みやすさまが、と理恵はたしかにそう言った。
古賀の探るような視線を避けて、宏太は手許のパンフレットに目を落とした。さっきは気付かなかったが青空の風景は表紙の部分だけでなく、A4の片面いっぱいに広がっていた。そこに虹が写り込んでいるのを見つけて、宏太は視線を吸い付けられたように動けなくなった。
「身内、なのかな」
古賀の声が右から左へ通り抜けていった。
- 登録日時
- 2011/02/18(金)
- 作者名
- 有郷 伶
- 分類
- リレー小説::神様(リレー小説1)