八色市の名前の由来は虹なのよ。宏太にそう教えたのは理恵だった。虹がよく架かるから。それが八色に見えるから。理恵は大人ぶって笑っていた。事実かどうかは確認していない。あの理恵が言うのだからそうなのだろう、と思う程度だ。
幼稚園に上がる前には、男も女も年齢も無関係だった。ただ家の近い子ども同士が集まっては遊んでいた。それが年を経るにつれ、学年で隔てられるようになる。平等だったはずの理恵との関係は、いつしか姉弟のようなものに変化していた。理恵が殊更に年の差を強調することが腹立たしく、しかしそんな彼女に甘えてもいた。
――コータ。
澄んだ声が耳の奥に蘇る。理恵は宏太をコータと呼んだ。音楽記号のコーダと似ていて、面白いからという理由だった。
理恵はピアノを弾く。習い始めたのは小学校に上がった頃だ。すぐに夢中になった。のめり込んで、もう遊んでくれないのではないか。幼心に寂しくなったことを覚えている。
結果は正反対だった。ピアノのレッスンを何よりも優先した理恵は級友と予定が合わず、宏太を遊び相手に選ぶしかなかったのだ。ひとり遊びが好きだった宏太は、しばしば自宅にいた。理恵にとっては手頃な観客だった。
――おいでよ、コータ、何か弾いてあげる。
――りえちゃん。
理恵はレッスンの帰りに宏太の家に寄っては、宏太を連れ出した。宏太の家族も、しっかり者の理恵が宏太を引っ張り回すことを喜んでいる節があった。宏太が大人しすぎると感じていたらしい。理恵は荷物を置くのももどかしそうに、アップライトピアノの蓋を開いた。ちゃんと聞いててね、コータ、そう前置いて小さな指が紡ぐ音楽は弾むように高らかに響いた。レッスンの後でもまだ弾き足りない。その日の成果を自慢したい。ピアノが好きで、仕方ない。宏太まで胸が弾んだ。だからいつも、にこにこしながら聴いていた。
「りえちゃん」が「理恵」になるころには流石に家に遊びに行くことは無くなっていたが、演奏を聞く機会は多かったと記憶している。高校まで続いた腐れ縁、合唱の伴奏でも学年合奏でも、ピアニストは決まっていた。
けれど音大の受験には、失敗した。
理恵が進学したのは、ごく普通の四年制大学だ。滑り止めに受けた無名の大学で、遠い。関東から関西へ、引っ越しが伴った。母親同士の会話からそれを知ったとき、宏太は不思議で仕方なかった。理由がない。
恥ずかしいってことみたいよ、と宏太の母は訳知り顔でため息をついた。ここは小さな町だから、そういう話はすぐに広まるでしょう。
そうだこの町は――閉ざされているから。
八色の虹のもとに。
「古賀さんは」
「うん」
脈絡無く訊いた。古賀はたじろぎも、訝しみもしなかった。
「女心ってわかるほうですか」
「嗜む程度になら」
いつも緩く弧を描いている目尻が、輪を掛けて垂れ下がる。古賀の質問がそのときやっと宏太に届いた。身内なのか、どうか。今の問答で女性だとは思われただろう。
ただの知人と言うには長く濃い付き合いだ。友人と言うにも近すぎた気がする。けれども恋人同士であったことは一度もない。古賀の疑問符に一言で答えるのは難しかった。
(ずっと恥ずかしくて、辛くて、だからあんなものに興味を持ったのか?)
みやすさま。
見知らぬ他人ばかりの土地へ行っても駄目だったのか。プライドが許さないのか、世界が許せないのか。それでは、この八色市に帰ることは苦痛だったのではないだろうか。理恵は不意の再会を喜んでいたように見えたのに。最初は確かに戸惑っている様子だった。しかし道ばたで近況を聞こうとした宏太を、〈リェータ〉へ誘ったのは理恵だ。今日は寒いし、コータに会うのも一年ぶりくらいだし。向日葵のような明るさに、一抹の儚さを織り交ぜたような笑顔は昔から変わらない。後ろ指を指されることを恐れている顔ではなかった。少なくとも宏太の印象ではそうだ。宏太が近況を話したとき、すなわち浪人生であることを伝えたときにも、憐憫や羨望は感じられなかった。西村家には浪人生活を支えるゆとりがなかったが、理恵は浪人してでも音大に進みたかったのかもしれない。だとすれば、宏太のことを良く思わないのではないか。そんな想像をしていた。実際に会った理恵は、落ち着いていた。
見かけ通りではないのか。
何を考えている。
「俺は、よく、わかんないんです」
もしあの笑顔が御安様あってこそのものなのだとしたら。
(胸くそ悪い)
手元に目線を落とす。虹の架かった青空と安っぽい新興宗教の文句は、宏太にとっては胡散臭い取り合わせでしかない。けれども理恵は、深みにはまろうとしているのかもしれない。
「古賀さん。もうちょっとだけ、お願いしてもいいですか」
「何を?」
こちらの質問には答えないくせに、と非難されることはなかった。古賀はあくまで愉快そうだった。
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- 登録日時
- 2011/03/01(火)
- 作者名
- みつき りお
- 分類
- リレー小説::神様(リレー小説1)