叫んだ宏太の声はしかし、理恵には届かなかったらしい。タイミングを見失って後ろ姿を追ううちに道は海岸へと向かっていた。
忽然とひらけた灰色の海にひとけはなく、かわりに波打ち際には一台のアップライトピアノがあった。ピアノは木の色を剥き出しにした背板をこちらに向けていて、その向こうに誰が座っているのかは定かでない。裏側を見たことなどないのに、宏太はそれが理恵のピアノのような気がした。
風に吹き散らされながら続く乾いた旋律に混じって声が聞こえた。
「おいでよ、コータ」
宏太は砂浜を進む。柔らかい砂に靴が埋まる。それでも引き寄せられるように、宏太はピアノに向かっていった。靴先が水に触れる。あっという間に足首まで呑み込まれる。回り込むと、椅子に座っていたのは巨大な海鼠だった。ひからびてカピカピしている。カピカピした海鼠を見るのは初めてだ。戸惑う宏太をからかうようにピアノは旋律を奏で続けた。
「羊頭狗肉」
背後で声がした。振り向くと古賀が立っている。
「ファム・ファタルの正体見たり干し海鼠とは、なかなか気の利いた皮肉じゃないか」
「理恵」
立っているのは古賀だけではなかった。まるでシャム双生児のように、膝まで水に浸かった古賀の腰の辺りから理恵の上半身が生えていた。理恵は両手に巨大な斧をもって、今しも振り下ろすところだ。すぐそばの波間に真っ二つのプーチンが漂っている。エリツィンとゴルバチョフも。頭が三つと足が六本。よく見れば理恵が叩き割ろうとしているのは血塗れのスターリンだった。真っ青な血。きっと蛸の仲間かなにかだ。粛正の血に塗れたスターリンから、革命の血に塗れたレーニンが生まれる。(だから足は八本になる)それはまるで逆様だ。
「そのとおり逆様だ。帝王切開の語源はカエサルだよ。アウグストゥスじゃない」
古賀の目尻がぐにゃりと下がる。そこからどろどろと崩れていく。
「季節が違うんだ」
「なんのことです」
「彼女に直接訊けば良かっただろう」
古賀が指さす。宏太は振り向いて、そこに理恵がいるのを見つける。理恵は一心にピアノを弾いている。青い血に塗れた指は滑ることもなく旋律を奏で続けている。
「歯痛で悩むナイチンゲールのように!」
下半身を失ったスターリンが叫ぶ。
「最善を尽くして!」
「最善を尽くして!」
「最善を尽くして!」
「最善を尽くして!」
「最善を尽くして!」
「リェータ!」「リェータ!」「リェータ!」「リェータ!」「リェータ!」
ロシア人たちの合唱が幾重にも谺する。
「さあコータ」
鍵盤を叩きながら理恵が呼ぶ。
「中を見るの」
「中を?」
ピアノの上のレースをはぎ取り蓋をもち上げて覗き込む。無数の弦に打ち付けられるハンマーの先。血塗れてぬらぬらと光る臓物。それはへその緒をつけた胎児。
胎児たちはそれぞれ勝手に名乗りを上げた。「モノ」「ジ」「トリ」「テトラ」「ペンタ」「ヘキサ」「ヘプタ」「オクタ」みんなそれぞれ違っていたがモノとオクタはそっくりだった。ただ色が違う。オクタは透きとおった肉色をしている。
「ぶち壊せよ。蓋を開けるんだ」
背後から古賀の声がする。ためらいながら、宏太は蓋を全開にする。途端に胎児たちはひからびて萎んでしまった。
「ほら簡単だったろう?」
古賀の体はとっくに崩れて海に流れてしまったのに、声だけがそこに凝っている。ピアノの表面の真っ黒な鏡に映った虹がきらきらと輝いている。宏太は両手に握った斧をもち上げ椅子に乗った理恵の上半身(腰から下はどこだ?)めがけて振り下ろした。さらに真っ二つになった理恵の中から現れたのは大仏だ。虹色の光背を背負った大仏は宏太を見ると微笑んで言う。
「太陽が眩しかったから」
そのとおりだ。眩しすぎる光をこらえて目を開けると、相変わらずピアノの音が流れていた。エリック・サティが。
(……現実?)
だとしたら夢のほうが夢であるというぶんだけまともかも知れなかった。現実の荒唐無稽は手に負えない。
この場所を宏太は知っている。無闇と豪華な市立の音楽ホールだ。その客席に宏太は座っていた。眩しいのは回転するミラーボール。舞台の上にはコンサート用の長いグランドピアノが出ている。確か理恵はスタンウェイだと言っていた。この町にそんなものが必要なのかと思うがピアノ教室の生徒はみんな喜んでいたようだった。
そのピアノの前に、大仏そっくりの男が佇んでいた。
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- 登録日時
- 2011/04/14(木)
- 作者名
- 有郷 伶
- 分類
- リレー小説::神様(リレー小説1)