和音の繰り返し、繰り返し、繰り返し。しつこいほどの繰り返しを経て音は止まった。最後に反響したのは澄んだピアノの音よりも、鍵盤に長い爪がぶつかる音だった。かつん、かつんと、一音ごとにぶつかり合ってしまって馴染まない。改めて途方に暮れる。もうここは、自分の居場所ではないのだ。
「お上手」
なおざりな拍手が響いた。男の賛辞は僅かにくぐもっていた。男が覆面で顔を隠しているせいだ。
曰く教祖たるもの神秘の演出を怠ってはならない。量販店で簡単に手に入る安物なのに、教団の人間に疑問を挟む者はいなかった。「御安様」にお目通りが叶う頃には、信者は信者として完成している。
「耳障りなだけだわ」
「いいと思うけどね。君のピアノ」
「御安様」はごく自然にそこにいた。威圧感もなければ神々しさもない。ただ壁にもたれて立っている。
(私には、ただの人にしか見えないけど)
理恵のなかで「御安様」は神様にはなり得なかった。理恵の神様は昔から決まっている。艶やかな黒の曲線美を、爪を当てないよう気を付けて撫でる。きれいな光で惹き寄せたくせに、残酷に理恵の手を振り払った神様。それでも未練が捨てられない。だから「御安様」を信じる心境は分かるつもりだ。経緯は理解できないけれど。
「もう指が硬くなってしまって、駄目よ」
音大の受験に失敗してから、ピアノはほとんど触っていなかった。音楽と欠片も関係ない大学は退屈だった。一人暮らしの家にピアノなんて勿論ない。こんなに長くピアノを弾かなかったことはなかった。だからピアノを弾く以外に、何をして生きていけばいいのか見当も付かなかった。
「だからってこんな教団に関わってしまうなんてね」
「あなたが言う?」
鬱鬱とした日々を過ごしていた理恵は、ある日同じ授業を取っている学生から昼食に誘われた。ほとんど話したことのない相手だったが、大学の人間関係などそんなものか、と大して疑問も持たずに受けた。授業の愚痴、サークルのこと、そんな他愛のない話で終わるのだろうと思っていた。しかし。
――いつも何や辛そうやね。
彼女はそう切り出した。
――安らぎが欲しくない? ……「御安様」って知っとう?
最近流行している胡散臭い新興宗教だ。すぐに興味を失いかけたが、他にやることもない。女学生の熱心な、受け売りの説教を聞くともなく聞いていた。ヤスラギトハタシャトトモニアル。タガイヲアイスルコトガリソウノセカイヲソウゾウスル。どないな苦しみでも「御安様」が救って下さる。
「最初は、ふざけないでって思ったわ」
どこの馬の骨とも知らない「御安様」とやらが、唯一神に後ろを向かれた理恵を救えるわけがない。安易な物言いに腹が立った。そして本当にすることがなかったので――理恵は教団の支部に文句を付けに行ったのだ。
「教団幹部は詐欺上手が多いはずなんだけど、君は怯まなかった。だから、話してみたくなったのさ」
「御安様御自らお越しになるとはね。しかもあなたは、手の内を全てバラしてしまった」
教団の目的、布教の方法、舞台裏の全てを。理恵のほうが驚いてしまい、憤りも途中で消えていた。そうして「御安様」は改めて理恵を勧誘したのだ。
教団運営に力を貸してくれないか、と。
理恵は提案を容れた。
それほどに、ピアノ以外に何も無かった。
「頭がいい、行動力もある、しかもヒマそう、だなんて最高の人材じゃないか」
だけどどうするんだい、「御安様」は愉快げに呟いた。
「あの子。今は薬で眠っているけど」
「コータ……」
先刻までは隣室からうめき声が聞こえていた。何か恐ろしい夢でも見ているのかもしれない。
「三方を山、残る市境を海に囲まれた八色市は閉鎖的で、昔の村のような空気が残っている。噂の回りは早いけれど、身内のスキャンダルは見て見ぬ振り。少しくらい派手に動いても問題にならない筈だし、市ごと教団に取り込むことも不可能ではない。近隣には大きな市も多い。新たな支部を作るに相応しい。そう提言したのは君だ」
大学も就職先も少ない八色市に、旧友はあまり残っていない。しかし市内の地理はほとんど変わっていない。理恵にとっては地の利を活かして活動できる、格好の場所だ。知人に会ったとしても布教の足がかりとして利用してやる。そのつもりで戻ってきたのだ。なのに始まりから、躓いてしまった。
「コータがまだ八色にいるなんて……」
教団の名前を零してしまったとき、しまった、と頭の隅で思いはした。けれどもいざとなったらこちら側に引き入れてしまえばいいと高を括っていた。
蓋を開けてみればコータは予想以上に教団に対して懐疑的で、「新興宗教にはまった理恵を助けたい」とまで考えている。
このままでは障害になる。
「どうしようか。……八色市進出はやめておく?」
「御安様」はくすくすと笑った。理恵はぎっと男を睨む。
「止めない」
過去の記憶が蘇る。りえちゃん関西の大学に行くんだって? 噂好きの主婦たちが能面のような笑顔で聞いた。りえちゃんピアノ止めちゃうの? クラスメイトが興味本位で聞いた。父母は職場で訊かれた。東京の音大に受からなかった屈辱を、秘密にしておくことなど出来なかった。
「八色を滅茶苦茶にしてやるまで止めない」
(そういえばコータは何も訊かなかったけど)
それはそれで、理恵の神経を逆撫でした。
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- 登録日時
- 2011/05/17(火)
- 作者名
- みつき りお
- 分類
- リレー小説::神様(リレー小説1)