最後に見た理恵の手を宏太は思い出す。それは後になってから、やけに強い印象を主張していた。細い分余計に関節が目立つ指の先、艶やかに塗られたマニキュアは薄い水色だった。左手の、面積の広い親指の爪には、細い色の線が引かれていた。赤、黄、青と、わざと塗り残したらしく、覗く爪本来の桃色。
近況を報告しあううちに気づき、その場の話題にもした。虹?と尋ねると、やしきのにじよ、と朗らかに答えた。それだけの話だ。さすがに八色は描けないね、と笑う表情に、不安になる要素は微塵もなかったはずだ。
だけど、と思う。そのときには思い至らなかったが、今になって、喉に刺さった小骨のように気になって仕方ない。
だけど理恵は、爪を伸ばしたりしなかった。
ピアノを弾くときに邪魔だから。そう言っていつも深爪だった。それが、指先からはみ出してのっぺりとした青空と虹を乗せていたのは何故だ。
虹。八色の虹。塗られていなかったのはきっと八番目の色だ。透明な光を思ったのか。人間の肉の色が理恵にとってそれだったのか。単にわからないから塗らなかったのか。それとも、そんな物はないという意味か。
「彼女に直接訊けば良かっただろう」
あっさりと古賀は笑い飛ばす。
「ついでに御安様のことも。信仰の理由なんて、結局本人以外にはわかりえない。本人がわかっているとも限らないがね」
答えられずに宏太はコーヒーを一口だけ啜る。
何故安主教に興味を持ったのか。何故八色にいたのか。ピアノはまだ弾いているのか。何を望んでいるのか。古賀の言うとおり、理恵に直接尋ねるのが最良である。例え言葉で嘘をつかれても、声の調子から、表情から、仕草から、何らかの真実を読み取ることができる。できる、はずだ。ずっと一緒にいた自分ならば。
思えばそれは、物心ついた頃からあった自信、否、確信だった。教科書の内容も学校行事も、理恵の一年後に宏太は体験した。互いに、同い年の友人達と遊ぶよりも小さな居間で演奏会を楽しむことの方が多かった。何より、小さな町で理恵の友人は皆宏太の知人でもあった。理恵の世界と宏太の世界はほぼ同心円だった。だから、家族を除けば、或いは、同世代だった分家族より、彼女と一番近しい人間である、と。
けれど二週間前の再会が、それを容易く揺るがせた。理恵がわからない。ただ八色の外に出てしまったというだけで。
彷徨わせた目に、ロシアの歴代大統領をかたどった入れ子人形が映る。自分の外側に、内側にあるものをマトリョーシカ人形は知っているのだろうか。
黙りこんだ宏太に肩を竦めて、古賀が立ち上がった。
「さて、もう行くよ。君のお願いのためにまだまだ調べ物が必要だ」
返事も待たず、床から鞄を拾い上げる。
「ここのコーヒーは美味いね。冷めないうちに飲んだ方がいい」
背を向けられ、柔らかい笑みが見えなくなる。慌てて宏太は声をかけた。
「あの、ありがとうございました。それから……よろしくお願いします」
ふらりと上げられた片手だけが応じ、宏太は一人残された。手許には安主教のパンフレット。
既に温くなっていたコーヒーを飲み干してようやく、古賀が会計を済ませてくれていたことに気づいた。どうも最近、一度考え込むとぼんやりしてしまうことが多い。それもとりとめのないことばかり。
こんなことで大丈夫か。ため息をついて何気なく見やった窓硝子の向こうを人影が横切った。
あ、と思わず声を上げる。忙しなく立った拍子に椅子が派手な音を立てた。比較的静かな店内に反響し周囲の迷惑そうな視線が集まるが、気にしている余裕はなかった。荷物を持つのももどかしく〈リェータ〉を飛び出す。
あの後姿は。
角を曲がろうとする背中に向かって、叫んだ。
「理恵!」
- 登録日時
- 2011/04/10(日)
- 作者名
- 如月 弥生
- 分類
- リレー小説::神様(リレー小説1)