訊いて欲しかったわけじゃない。しかし常に小さな音楽会唯一の聴衆であったコータには何かを期待していたのかもしれない。
『まだピアノは弾いてるんだろう?』と。
ピアノ教室を辞めたからといって、ピアノを弾くことを止めなければならないわけではない。楽譜は身体に宿り、指先が音を求めて鍵盤を叩くだけなのに。何故それが皆には理解出来ないのか。……コータなら理恵の未練を理解してくれていると思ったのに。
「男子の思考ってよく分からないわ。単に鈍感なのかしら」
「御安様」は覆面の下でくすりと笑った。
「きっと男子も女心はよく分からないって思っているよ」
ふん、そうかもね、と気のない返事をして、理恵は白鍵をひとつ抑えた。それからディン、ギン、ジン、ビン、ティン、ピンと七つの階(きざはし)を跳び越えて響は昇ってゆき、八つ目の最後の音はキンと鳴った。
『……あなた、“音”に色や形が視えてる? 例えばCと甲のC。同じ形の、だけど似て非なる色。ほら、違うでしょう。わからないの? だからそういう演奏なんだわ。あなたにはオクターヴの外側の世界が視えていないのね。たった七つの音にすべてが閉ざされている』
理恵が音大に落ちた理由。中年のピアノ教師は顔も上げずにそう言った。中学生の頃に挑戦したピアノコンクールでも同じことを言われた。その時は、薄緑色に木口の黄ばんだ鍵盤が、思った以上に硬くて気を取られた所為だと自分に言い聞かせてきた。
「やっぱり私には八番目の色なんて見えない。閉じた虹の外側の世界なんて知らない。でも世界中何処へ行っても人が居て、人の色があるんだわ。人間の肉の色。もし血が赤くなかったら私たちにはもっと別の世界が視えたのかしらね」
「例えば肌も黄金色、とか?」
理恵は宏太を寝かせた部屋に鎮座する金メッキの大仏を思い出した。
「笑えないジョークだわ」
それは幹部たちが大仏に似せて作ったただの置物だ。顔立ちや身体のラインが「そっくり」というだけで、仏教に関連するものは何ひとつ身に付けていない。迷える衆生の声を聞く耳はふくよかなわけではなく、救いを差し伸べる手は長くもなければ多くもなくて、かなり不恰好な気がする。あんなもので開ける世界なんてきっと八色以上にろくなものじゃない。
「心に鉛を抱える者にとっては、あの姿そのものがたった一本の藁なんだよ。風が吹いたら他の人に靡いてしまう。だから必死で掴み、繋ぎ留めようとするんだよ、理想の世界を。そのための偶像は何だって構わないんだ」
私の神様はただひとつよ
私を救ってはくれない、優しくて残酷な神様
安らぎは此処にあると謳うくせに、その光は私には届かない
――いいえ
其処が深海なの。私は底に潜れなかっただけ
深い深い闇に沈んだ、一台のぬばたまのピアノ
胸を焼く冷たい水を、私は飲み干すことが出来なかったんだわ
理恵は黒いヒールで床を踏み鳴らした。まるでハムレットの独白の様に。コツコツコツと、伽藍堂の空間に足音だけが虚しく響く。
「君がぶち壊したかったのは八色市じゃなくて、七色に閉ざされた君自身の世界だろう? 天板を上げるんだ。君が望む日の光を取り込む為に。上手く世界が繋がったならさぞかし美しい音楽が溢れ出すんだろうよ」
君一人では重過ぎても、「彼」と一緒なら持ち上がるさ。覆面の下の顔は見えない。しかしただの人であった男は今や「御安様」の顔をしていた。理恵はぎくりとして男を睨み付ける。
「コータに何かしたら許さないから」
どうやらまだ夢は続いているらしい。透ける大仏はゆっくりと詠う。口を衝いた言の葉ひとつひとつが花開く。それぞれの花弁が剥離して、中から現れるのは小指ほどの胎児。初めに産まれたのは紫色。続いて藍色。青、緑、黄、橙、赤。後から後から胎児は産まれ、産まれたそばからひからびていく。そうして最後に肉色の胎児が産まれた。それは枯れゆく前にぱちぱちと瞬きをした。
『ココハマブシイ。マブシイケレド、シロイヤミ』
宏太は大仏から産まれては萎んでゆく胎児たちを見て、昔の高名な僧侶みたいだとぼんやり思った。
眩しいけれど、白い闇。熱の無い偽りの光。
意識の遠くで聴こえるピアノの音。弾いているのは間違いなく理恵だ。どんなに離れていても、どれだけ互いの心が見えなくても、この音を宏太が聴き違えることなどない。揺蕩う時間の中、何とはなしに届く男女の声で夢が動く。
――ねぇコータ、この曲おかしなタイトルでしょう?
――海鼠は哺乳類じゃないんだって
――最善を尽くして!
――シューベルトにマズルカはないの
大仏そっくりの男が羊の面を被って笑っている。
始めからこうしていれば良かったのだ。
『この曲は矛盾だらけなのよ』
そう、矛盾だらけなのだ。何もかも。理恵の心も。宏太の役割も。
忘れたいけど捨てられない。
守りたいけど触れられない。
壊したいけど憎みきれない。
始めから、こう言えば良かったのだ。
「理恵のピアノが聴きたい」
ピアノしかなかった理恵が迷い込んだ無音旋律のルフラン。
急激な意志の覚醒に思考がくらりと寝返りを打ちそうになるが、焼き切れそうな痺れを振り払って瞼をあげると、大仏にそっくりな大仏が場違いなほど優しく微笑んでいた。宏太は途切れ途切れに聞こえる理恵と男の会話を支えにして立ち上がる。もう、それだけで十分だった。
「終わらせよう、巫山戯た譜面の最後に刻む、俺の名で」
- 登録日時
- 2011/06/04(土)
- 作者名
- 風氏 蒼牙
- 分類
- リレー小説::神様(リレー小説1)