coda――その意味は、曲の終結。
「コータ、起きたのね」
ドアを開けると、柔らかく笑んだ理恵がそこにいた。その後ろに、覆面の男と蓋の開いたピアノが見える。ありふれた蛍光灯の光を浴びて、白鍵が生き物の歯のようだった。
「ちょうど、様子を見に行くところだったのよ」
何事もなかったように今宏太に話している声が紡ぐのを、夢と現実の境目で聞いた。
八色を滅茶苦茶にする、と。
「理恵、何を望んでる?」
夢を引きずったままの頭では言葉を選ぶ気にもならない。思うままに問いを零すと、理恵の顔から表情が抜け落ちる。
救いたいと思っていた。その笑顔でその音色で、宏太の世界に再び色をつけてほしかった。
君の望みは今ある八色市という世界をぶち壊すことになるかもしれない。古賀の言葉が蘇る。今日聞いたばかりのその声は、輪郭を滲ませて他の誰かのそれと混ざり合う。
もし、その言葉が事実ならば。理恵が御安様の下で理想の世界とやらを実現させても、宏太の望むとおり帰ってきたとしても、結局八色は失われる。
ならば、そんなことはどうでもいいのだ。ありもしない色を掲げ閉じこもる場所など。
塗らないでいた八色目は、図らずもあるがままの人間の色を見せた。ならばオクターヴの外側にあるのは、やはり人の世界だ。あらゆる人があらゆる色と音を織り成す、見知らぬ混沌。
背中に〈御安様〉の視線を感じる。その子をどうするのか、と愉快そうに尋ねてくる。
答えを探し、理恵はコータの顔を見上げた。この場で丸め込むのは困難で、かといってこのまま帰せば――帰せば、どうなる?
教団が八色市進出を考えていると知れば、コータは阻もうと動くだろう。大人しい性格の浪人生一人、できることは限られているとはいえ見過ごすこともできない。
けれどそれ以上に、教団に対して、ではなく、理恵に対してどう出るか。
放っておいてはくれないだろう。
「コータは、何だと思う?」
「ピアノ」
時間稼ぎのつもりの問いは、間をおかず返された返答で役割を失った。
「心置きなく、ピアノを弾いていられる世界」
突然、後ろから聞こえた笑い声に、理恵は振り向く。
「いや、若い人はやはりいいね。君たちの姿は、まるで我々の教義そのものだ」
愛しい者と共に創造しようとする、理想の世界。教主はゆっくりと、ドアの前から動かない二人へ近づいてくる。
「コータ君、と言ったかな? 理恵君には、我々もずいぶん助けてもらっている。だから彼女の望みが叶うことは、そのまま我々の望むところでもあるのだよ」
コータの目が、訝しげに眇められる。
「君の手で、叶えてみないかい?」
ああ、この男は。信者としてでなく理恵の味方として、コータを引き入れるつもりなのだ。
「……宗教なんかじゃ、理恵は救えない」
理恵の肩越しに、コータが口を開いた。
「俺は、理恵のピアノが聴きたい。八色の中でそれができないなら、こんな街なくていい。だけど、その世界を創れるのは神じゃない」
何も訊かなかった癖に知ったようなことを言う。けれど否定はできない。やはり、男子の思考などわからない。なぜ今になってそれを言うの。
「理恵、ピアノを弾いてくれ。救えもしない神に祈るより、八色の内側に捕らわれるより、音楽を奏でて」
天板を上げろ。彼となら。そうして差し込む光はきっと、オクターヴの外側を照らし出す。だけど、私が演奏者でコータが観客でいてくれた、その世界は紛れもない八色にあったのに。その外でピアニストになることは叶わなかったのに、外へ出ろと強いる。
それでも、ただ音色を求めていたことを知っていてくれた。そのことに少々驚く。目の前の教主が、声もなく笑みを深めた。さあ、どうすると理恵に迫る。
知らずつめていた息を意識的に吐き、幼馴染に向き直った。
「馬鹿ね、コータ。私が縋るのは、こんな神様じゃないの」
大切な望みは知っていても認識している事実が違う。幼い頃、市の名前を教えたように姉ぶって諭してみせた。
救いなんて求めない。言い切りながら、背後の〈御安様〉の気配を窺う。こちらを眺めながら、微動だにしないようだった。
ここで何を言ったところでこの男は気にしないのかもしれない。自分が一信者でなく運営協力者であり、八色進出を計画していることも。知られてもかまわないと鷹揚に笑うのだろう。
安主教としては、八色にこだわる必要はない。だから、理恵の存在を利用はしても惜しみはしない。代わりのように、有益である限り、そして害が及ばない限りは利用されることにも甘んじる。
使うだけ使わせて必要がなくなれば手を離していいなんて、一見まるで慈悲深い神のよう。
だけど、そんなものは信仰ではない。もっとずっと、痛いくらいに思う唯一がある。
コータの表情が疑問に揺らぐ。
「あなたの言った通り、私の望みなんて一つだけ」
見知った誰かが嗤う土地で、ただ一人でも聴きたいと願ってくれるなら。世界なんて、壊れようが創られようが、本当はどうだっていいのだ。
ならば、その一人に届ける音を得たい。
〈リェータ〉の紅茶は美味かった。宏太には紅茶の味などよく分からないが、口の中に混在する苦みと甘みは心地よい。
「で、顛末をお聞かせ願おうか」
夢の海岸でどろどろと溶けた古賀は、何事もなく向かいから問う。
答えようとして、答えようがないことに気づいた。宏太の周囲は何も変わらない。
あの日理恵は、ピアノを弾ける場所を探すとだけ言った。そのまま宏太は家に帰らされ、疲れ果てて眠り込んだ。一夜明けて、安主教は消えたわけでもないらしく、パンフレットに記載されていたホームページを見ればありきたりの紹介文と支部などの連絡先が何の変哲もなく載っていた。理恵は里帰りしていたが朝早く京都に戻ったと家族から聞かされた。昨日いた建物へ行ってみたが鍵がかかっていて入れず、いっそ夢だったのかとも思った。変化はあるのに何も変わらない。
「そんな物かもしれないね。変わったように見えても境目なんて本当は存在しない。何もかも一つながりなのさ」
たとえば、色味、音の高低。連続しているそれらを区切り名づけたのは人間だ。土地の境も。境界線を引くからこそ、そこを越えることに躊躇する。
「分かれたことで色彩が生まれ音階が生まれ、地域性が生まれた。やがて芸術となり文化となる。そして人間はそれに捕らわれる。幻の境界から、自分の手で檻を作り出すんだ。そして、その檻自体が変わっていくことにも気づかず、何も変わらないつもりでいる。例えば〈御安様〉が八色に進出してきたとして」
思わず眉をひそめると、相手は苦笑した。
「やはり何も変わらないと思うんだろうさ。自分たちの生活の中に、その侵入者の置き場所を設けて妥協できる範囲で受け入れる。互いに形を変えながら交じり合って、気がつけば日常の一部に取り込んでる」
そして、八色は八色であり続ける。形を変え、中身を変え、人も変わり、しかし連綿と続く営み。
古賀が手帳を取り出した。ついでに煙草の箱も机の上に置かれる。
「ここ、禁煙席ですよ」
「喫煙マナーは年々厳しくなっているね。しかし幸い私は煙草を吸わないんだ。これは手帳からこぼれたメモ入れだよ」
箱に入れられていた紙片から、一枚を宏太に差し出した。
「これは?」
「安主教信者の生の声さ。その様子じゃもう必要ないかもしれないけどね」
「……いえ、ありがとうございます」
短い走り書きに目を落とした。
『縋れるものなら、何だってよかったのです』
「鰯の頭も信心から。その人にとっては、鰯でも鯖でもなく、〈御安様〉がもっともらしい姿でそこにいてくれたそうだよ。縋ったそれを生きる支えとした、宗教そのものだね」
仏教でもキリスト教でもイスラム教でも良かった。救ってくれると思えたら、神でなくともかまわない。そうした人々を得て、安主教は広がっていくのだと言う。
「理恵は縋っていないと言ったけど、結局頼っていたんだと思います。何もなくて蹲っていたところから、理由はどうあれ、立ち上がったんだから」
理恵が京都へ戻る前の晩、宏太の母は、隣の家からピアノが鳴るのを聞いたという。やっぱりいいわねと楽しげにしていた。やめちゃうのかしらと噂をしていた人々は、あの音を聞いて、また始めたのねえと噂にして、そうしてそれを日々として認識していくのだろう。本当に何も変わらない。
「ところで、女心は分かりそう?」
「俺にはさっぱりです。とりあえず、救おうなんてしゃしゃり出る必要もなかった気がする」
「女性は頼もしいからね。それでも君の存在も、何がしかの役割を持っていたんだろうけど。二人が望みを叶える道を探せるなら、解決といえるんだろうさ」
「そう、ですね」
分かったことは少なくて、できたことももっと少ない。けれど、理恵のピアノがまた聴けるのは楽しみだった。
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- 登録日時
- 2011/07/05(火)
- 作者名
- 如月 弥生
- 分類
- リレー小説::神様(リレー小説1)