――あれが虹だと教えてくれたのは誰だったろう
「教えてあげようか? この、八色という虹をほどく、方法を」
静かに問う声が、耳を通して脳に響く。
「簡単なことさ。科学を進めればいい。いつだって神様を殺すのは人の科学だよ」
キーツに聞いてごらん、と古賀は笑う。
「本部の教壇に立って、神はいないと説けばいい」
宏太の「お願い」に目の前の男は軽くそう答えた。
「その、安主教っていうのは、何をするつもりなんですか。信者を増やして、勢力を拡大して。なんのメリットがあるんですか?」
「まるで御安様が悪事を企んでいるかのような言い方だね。メリットも何も、宗教ってそういうものじゃないのかな。信者の数が多いほど社会的に優位に立てる。人の信じる心は、時として真実を作り上げてしまう力になり得るんだから」
自分は間違っていない、異常なのは世界の方だと信じる人間が増えるほど、世界は異常になっていく。世の中なんてそんなものさ。
古賀はカップを手に取ると、中の液体をかき混ぜるようにゆらゆらと揺らした。
「気に食わない世界に留まるよりは、自分で新たな世界を作ってしまえという事かな」
「気に食わない世界…」
常に伴奏者でいられた教室。譜面と拍手で溢れた家庭。防音壁が背を向けた国立音大。夢にあと一歩届かなかった自分自身。
それならば理恵にとっての理想の世界とは、どんなものだというのだろう。
(ピアニストとして生きていける世界?)
ステージライトを浴びて、鳴り止まぬ喝采にアンコールで応える。
それがもはや叶わぬ今、彼女が晒されるのはひそひそとした視線だろうか。
(それでも)
不自然な時期に、わざわざこの八色へと帰省した。
みやすさま、という言葉とともに。
「俺はその人を助けたいんです。そのための方法が、知りたい」
ずっと微笑みを絶やさない古賀の心裡は読み取れない。
「それってエゴじゃない?」
そんなことははじめから分かっているんだ。この胸のモヤモヤした気持ちが、不安や心配とは違ったものであることも。的確にそこを突いてくる。ああ、やっぱりこの人は。
「それでも、お願いします」
理恵のピアノが鳴らないこの町の景色には色が無い。
七つの音階と同じ名を持つ、七つの光の色さえも。
静寂が舞い降りて、宏太の耳が店内のBGMを捉える。二週間前も流れていた、理恵と最後に聴いた曲。タイトルは何だったか。
「そう言えばこの町の名前って、虹から来てるんだってね」
古賀が唐突にそんな事を呟いた。
「え?」
「だから、虹。八色の虹が見える町なんだろ? ここって」
「…みたいですね。俺も詳しくは、知らないですけど。見た事もないですし」
理恵から教わった、ただそれだけでろくに確かめもせずにいた話をいきなり振られて、宏太は戸惑った。「外部の人間」からそんなことを訊かれるなんて。
「ふうん。地元民でもそうそう、か」
古賀がゆっくりとコーヒーを啜り、カップを降ろす。
「羊頭狗肉」
ソーサーがカップを受け止めた瞬間、心臓がドキリと跳ねた。
「偽物だよ。光など射さないくせに、虹を名乗る」
宏太には相手が何を言っているのか分からなかった。息を呑んだまま、宏太は古賀の目を見つめる。そこにはいつもの愉快そうな瞳があって、光を受け入れているだけだった。
「ここに来てから半年も経ってないけどね。この町はまるで暗闇の深海魚みたいだ。傍にあるのは光のない、偽りの虹。閉じた水底の鏡面から引きずり上げたら、きっとぬらぬらとした臓物を吐き出すよ」
自分の生まれ育った町をそんな風に言われたのは初めてだ。
ずいとテーブルに乗り出した瞳が宏太の世界に踏み込んでくる。
「君の望みは今ある八色市という世界をぶち壊すことになるかもしれない。しかも御安様の教義に真っ向から反するけど、君はそれでいいのかな?」
〈互いを愛し理想の世界を作り上げなさい〉
閉ざされた町で、折り重なった世界で。自分は変わらず生きていくのだと思った。だけどあの日、理恵を見送ったあの日、子どもの世界と大人の世界はどこまでも繋がっていないのだと知った。
彼女はもっと手の届かない場所へ行こうとしている。
「俺にとっての世界は、あいつが笑ってここに居る、この町なんです。あいつの居ない偽物の世界なら、粉々にしたって構わない」
夕暮れの中、白く細い指が奏でる旋律に心躍らせた。あれが、本当の世界だというのなら。
ある意味教義通りかな、と古賀は楽しそうに目を細める。
人はいつだって、自分の世界を守る為に、誰かの世界を壊してゆく。
それでも、その誰かを幸せにできると思うなら。
「教えてあげようか? この、八色という虹をほどく、方法を」
迷うべくもない。
たとえ、八番目の光がどんな色であったとしても。
- 登録日時
- 2011/03/10(木)
- 作者名
- 風氏 蒼牙
- 分類
- リレー小説::神様(リレー小説1)